筆者はSonyが提供しているPlaystation plulsというサービスに入っている。そのサービスにはゲームカタログというものがあり、300本以上のラインナップされたゲームが遊び放題という特徴があり、実際に買うのではなく感覚としてはゲームをレンタルする感じで遊べる。このサービスの良い点は、実際にゲームを買わないので安く済み、無名から大型タイトルまで幅広いゲームを自由に選んで気分に合わせてやりたいゲームをプレイできるところだ。ゲームを買ってそれ一本をクリアするまで遊ぶといったそれまでの感覚とは違ったゲーム体験は、買い切りゲームをプレイすることへのハードルの低下になる。結果、業界の主流になると思われるサービスだと筆者は考える。

両面があるということ

週末に西都原古墳群に行った。この際西都原考古博物館に寄ってきた。この博物館では、西都原古墳群の古墳の形態や、西都原古墳群から発掘された物をベースにしてわかることをについて、一般向けにわかりやすく展示している。縄文時代から弥生時代、古墳時代が対象のようで、その時代に使われていた矢尻、包丁、釣り針、鉄器、土器などが多い。

この博物館は、展示されている発掘品もそうなのだが、発掘品から何が読み取れるかということ押し出している点が面白いと思う。

弥生時代というと農耕のイメージがあるが、農耕文化の伝播にも地域差があったようで、弥生時代においても旧来の生活を維持し続けた文化もあるということらしい。それについて、博物館では、どの文化が優れているというわけではなく、それぞれに意味があるのだというふうに説明している。まぁ確かに考えてみれば優劣というのは、ある価値観(大抵は文化や主義)があって初めて生じてくるものではある。弥生時代あたりでいえば、農耕文化を取り入れている地域のほうがより安定的で文化的であるわけで、それは文化的に優れているような気がする。ただ、一方で、自然との共生を美とするような価値観で考えてみると、自然破壊を行なって発展していく農耕文化というものは必ずしもいいものではないかもしれない。物事は両面あるということで、多面的に考えてみることが大切だということだ。

今が一番時間があるんだということ

 家族が病気になったことをきっかけに地元に帰省することになった。地元は人の出入りが少なく、地域社会が完全に固定化しきっている町で、近年で街全体の高齢化も顕著になって生きている。そういう人々と話したりして、あらためて人生設計について考えたりする。
 このブログの著者は3人とも20代で、将来への漠然としてた不安を抱えている。その一方で、時間的猶予を多く持っていて、なんなら延々と人生が続いていくものという錯覚すらを起こしている。僕もその例に漏れないのであるが、地元で色々話をしているうちにその認識も修正されてきつつある。
 父親とドライブをしている時に、父親が自分の今後について語っていた。父親は僕の祖父(父親の父親)のこの頃の仕事の様子を見て、自分も今後はこういう感じになるだろうということを言っていて、それが自分の人生だと言っていた。そこには、落とし所を見つけたという安心感と達成感が感じられたが、それと同時に、これ以上のスケールを目指すような、そういう衝動的な何かはもうなくなってしまったのだなぁという印象も覚えた。50代は勝負に出て一発当てるというフェーズではもちろんないし、支える家族もあるのでリスクを取るのはできればやめていただきたいというのが本音ではあるが、それでも、終着点を意識した人間の発言には寂しさが感じられる。
 我々にしてもいづれはそういう終着を見据えた人生設計をしなければいけない段階がいつかはくるのであって、将来どうしようかとか言って模索を続けたり、衝動的にバカみたいなことをやったりできる時間は延々ではないのである。
 要するに何が言いたいかというと、今が一番時間があるんだということを認識しないといけないということで、今やりたいことは今全部やっておいた方が良いのだ。未来のどこかでは時間的余裕が持てるはず、という謎の楽観的推測を多くの人がしているが、そんな未来はないのである。今が一番時間があるんだ。
 ということで、卒研を理由にUnityの勉強を先送りにしていたけど、余暇時間を使って真面目に勉強します。
 みんなもやりたいことは今やっておいた方がいいよ。とりあえずカレンダーを見て、スケジュールをきちんとロックしたら取り組めるはずでしょ。