僕の生きる意味

  Horikの記事の二次的体験について自分も思うところがあり、文字として排出し頭を整理して、人生からの有害な二次的体験の削減に役立てていこうと思う。


 二次的体験とは何だろう。Horikの文面から引用すると

直接的体験と二次的体験(勝手な造語、他の文脈と重複しているかもしれないが関連はない)について考えたりしたが、あまり考えがまとまっていないのでまた今度。これは再三色んな人に言っているのだが、現代は直接的体験よりも二次的体験が増えすぎていると思っている。そして、この二次的体験が非常に魅力的になっていることが重要な事実だと思う。直接的体験にフォーカスした生活をするためには、ある程度は二次的体験を生活から排する努力を要するのかなとも思う。

直接的体験と二次的体験は対比されており、ネット上に溢れている情報から得る疑似的体験が二次的体験でそれ以外が直接的体験として大まかに分けられるのではないだろうか。

 二次的体験にはどのようなものがあるか。私の生活の中で大部分を占めているものとその種類や識別基準を書いてみる。※赤文字は僕が生活に不必要だと考える基準


●ポルノ

        ○思考を停止して、ただ無意識に快楽を求めるもの

                →視聴者の創造力を必要としないもの

        ○ストーリーに新鮮さがあり、作品として楽しめるもの


●映画、アニメ

        見る価値の無いもの(最近のアニメに多い)

            →なろう系などのような、ストーリーに新しさや独創性がなく、視聴者の精神的、性的昂ぶりをメインで狙ってストーリー構成や演出がなされているもの→駄作が多い

        ○見る価値のあるもの(映画に多い気がする)

            →名作と言われる人生や志向を変えるきっかけになるもの

            →自分の興味のあるもの


●Youtubeの動画

        目的意識をもって見ていないもの

            →検索をかけていない→おすすめを惰性で見る

        ○価値のあるもの(技術に関する情報)

        ○興味本意で見つけたもの

            →新たなジャンル開拓として見極めと撤退が大事。

 二次的体験はすべてが害ではなく、自分の判断や行動によって「能動的に何かを得ようとしたときに享受するもの」には価値があると言えるのではないだろうか。

 それに対して、おすすめや、性欲、惰性に任せて「自分の決断と関係なしに、受動的に享受するもの」には、人生に対して価値よりも害があることがわかる。また、そのようなコンテンツには依存性があり、提供する側の思惑を創造すれば、それが害になることは明らかである。


 では、後者の二次的体験を享受することは悪なのだろうか。私はそうは思わない。人によってはコンテンツの海に溺れることを幸せとする場合もあるだろう。逆に、現代にはその場合が多く感じる。特に趣味もなく、仕事から帰ったらそれらに溺れる。それもその人の選んだ人生。

 しかし、私はそのような人生を送りたいとは思わない。自分の感性、欲、目標を指標に、地に足をつけて生きていきたい。企業や世の大人たちが用意した、緩やかで刺激のないふわふわした幸せに浸る人生を送りたくない。自分で能動的に選んだ情報で自分を磨き、それを持って自分の欲を叶える。好きな女性がいたら、ポルノに目を向けずベッドインを目指して突っ走る。ぬるい作品を見るよりも、刺激的で自分の志向を変えてくれる作品が見たい。自分のやりたいこと、目標の為に勉強する。自分の価値観を広くするために、いろいろなジャンルを開拓する。こんなきらきらした人生を歩みたい。

そんな人生において不必要な

ポルノ、ぬるい刺激、ふわふわした幸せ、それらを避けて、

筋トレ、自分磨きによって掴み取る実体のある幸せ。

それらによって欲を満たす。それこそ僕の生きる意味なんじゃないかと考える。

2 件のコメント:

HoriK さんのコメント...

「筋トレ、自分磨きによって掴み取る実体のある幸せ。」はおそらく情報量は高いんだけど、刺激量は高くないわけで、どうやってそれを生活の中心に持ってくるか、というのもまた重要なテーマかなと思う。

なすし さんのコメント...

この議題は今週金曜に話し合わなければなりませんね

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